新婚旅行と言えば、人生の中でも特別な旅行となります。生涯のハイライトとなることも多いでしょう。しかし冷静に考えると、なぜ旅行に行くのでしょうか。少なくとも、伝統的な日本文化ではなさそうです。この記事では、新婚旅行の歴史と、その意味がどのように変わってきたのかについて、詳しく解説しています。
ポイント
- ハネムーンの意味と、イギリス貴族のブライダルツアー
- 日本の新婚旅行の歴史
- 新婚旅行と恋愛結婚
- 熱海と宮崎が新婚旅行先として人気だった理由
新婚旅行とは?なぜ旅行に行くの?
結婚したら当たり前のように新婚旅行に行くことを考えますが、そもそもなぜ旅行に行くのでしょうか。その文化はどこから来たのでしょうか。ここでは、ヨーロッパのハネムーンの歴史と、それがどのように日本に根付いたかについて解説します。
ハネムーンとは?
「ハネムーン(Honeymoon)」とは、直訳すると「蜜(honey)」の「月(moon)」で、そのまま日本語で「蜜月」と訳されています。結婚直後の、親密でラブラブな期間のことを意味します。
つまり本来、「ハネムーン」は特定の期間を意味しているだけで、旅行という意味は含まれていません。
言うならば「ハネムーンツアー」=「新婚旅行」となるのですが、英語においても「ハネムーン」だけで休暇を意味しています。もちろん「旅行」をしてもいいのですが、「旅行を含む休暇全般」という意味合いの方が近いようです。「ハネムーン」=「新婚休暇」といったところでしょうか。
ハネムーンの起源
歴史上、「Honeymoon」という言葉が最初に登場するのは、1546年に出版された英語の辞書のようです。
しかしこの時の定義は、「結婚直後の甘い期間」や「新婚休暇」ではなく、「ハネムーンを過ぎれば、どんどん冷めていく」「それはハネムーンなだけだ、現実を見ろ」という、皮肉めいたニュアンスで使われていたようです。
それが時間とともに、「新婚カップルの特別休暇」を意味するようになりました。
イギリス貴族のブライダルツアー
19世紀のイギリスの上流階級では、結婚をしたら、親族や友人にパートナーを紹介するため、挨拶回りをするという風習がありました。これを「ブライダルツアー(Bridal tour)」と言います。
ブライダルツアーの移動は、馬車が基本でした。
鉄道の普及とブライダルツアーの一般化
1825年に、イギリスで世界初の旅客鉄道が開通すると、ヨーロッパ全土に急速に拡大していきました。
鉄道の普及により、ブライダルツアーはより遠くまで行けるようになりました。さらに、友人を訪問するだけでなく、休暇としてリゾート地に滞在するという習慣も生まれてきました。
このブライダルツアーの習慣が、貴族や、裕福な家だけでなく、一般家庭にまで広がっていきました。これが現在の「ハネムーン」へと繋がります。
ですから本来「新婚旅行」は「ブライダルツアー」と言うべきなのですが、どういうわけか「ハネムーン」という言葉が取って代わりました。
日本の新婚旅行の歴史
ヨーロッパのブライダルツアーは、日本にも紹介されます。しかしそれだけでは不十分で、恋愛観の変革が必要でした。その歴史をみてみましょう。
日本初の新婚旅行は坂本龍馬?
日本に初めて「ハネムーン」という言葉が登場したのは、1878年の『欧州奇事 花柳春話』(ロウド・リットン著、織田純一郎訳)です。この時は「ホネームウン」と表記されていました。
1883年に、土陽新聞(現、高知新聞)で連載していた小説『汗血千里駒』(坂崎紫瀾著)に、1866年の寺田屋遭難の後、坂本龍馬が楢崎龍と共に、薩摩へ療養しに行ったたことを、「ホネー、ムーン」として紹介しています。このことから、日本人初のハネムーンは、坂本龍馬だという俗説が広まりました。
しかし実際には、1856年に薩摩藩の政治家・小松清廉が、小松近と霧島に旅行したのが、最初ではないかという説もあります。
「Honeymoon」を「新婚旅行」と訳したのは、仏教哲学者の井上円了で、1889年に東京日日新聞(現、毎日新聞)で、欧米文化として紹介されました。
その後、様々な文芸作品の中に新婚旅行が登場するようになり、世間にも広まっていきました。
年表にまとめると、以下のようになります。
西暦 | 和暦 | 出来事 |
---|---|---|
1856年 | 安政3年 | 小松清廉と小松近が、霧島に旅行 |
1866年 | 慶応2年 | 坂本龍馬と楢崎龍が、薩摩で療養 |
1878年 | 明治11年 | 『欧州奇事 花柳春話』に「ホネームウン」という言葉が登場 |
1883年 | 明治16年 | 『汗血千里駒』で、坂本龍馬と楢崎龍の旅を、「ホネー、ムーン」として紹介 |
1889年 | 明治22年 | 東京日日新聞で、「Honeymoon」が「新婚旅行」と訳される |
鉄道の発展と上流階級の新婚旅行
1825年にイギリスで鉄道が開通しました。遅れること約50年、1872年に、東京と横浜を結ぶ、日本初の鉄道が開通します。
その後、全国に広がっていき、1889年には東京と大阪が結ばれました。当時は、20時間ほどかかったようです。現在は2時間半ですので、8倍くらい速くなったということになります。
鉄道の普及に伴い、新婚旅行の文化も広がっていきましたが、まだ上流階級にとどまっていました。
当時は、結婚とは「家同士」で行うという考えが主流でした。そのため、夫婦二人で旅行するという考えは受け入れられなかったようです。
西暦 | 和暦 | 出来事 |
---|---|---|
1924年 | 大正13年 | 皇太子裕仁親王(昭和天皇)と良子女王(香淳皇后)が、福島県の高松宮翁島別邸(天鏡閣)で過ごす |
1930年 | 昭和5年 | 高松宮宣仁親王と宣仁親王妃喜久子が、ヨーロッパを14ヶ月に渡り旅する |
高度経済成長と恋愛結婚
家同士の結婚から、個人の「恋愛結婚」へと変わったきっかけは、皇太子明仁親王(平成天皇)と正田美智子(上皇后美智子)と言われています。1957年に運命的な「テニスコートの出会い」を経て、1959年に結婚しました。それが大々的に報じられたため、若者の結婚観にも変化をもたらしたようです。
さらに翌1960年には、清宮貴子内親王と島津久永が結婚をします。
女性目線で、「平民である美智子様は、皇族と恋愛結婚をした」「皇族である貴子様は、平民とお見合い結婚をした」として、大変話題となりました。
お見合い結婚ではありますが、婚約が発表される前の誕生日会見で「どのような男性が理想ですか」という質問に対し、「私が選んだ人を見てくださって」と答えたことは、大きな衝撃として広まり、当時の流行語となって、結婚ブームに火をつけました。
「男女平等」「自由」「恋愛」がトレンドとなり、この頃に、お見合い結婚より恋愛結婚の割合が上回りました。
その結婚ブームに高度経済成長が合わさり、ホテルや旅行会社は、次々に結婚プランを打ち出していきます。
当時、新婚旅行の行き先として人気だったのは
- 箱根
- 伊豆
- 熱海
- 白浜
- 宮崎
です。
特に宮崎は島津貴子・久永夫妻が新婚旅行で訪れたため、新婚旅行の聖地として、絶大な人気を誇りました。南国リゾートのイメージも合わさり、ピーク時には、新婚旅行先の3分の1が宮崎だったそうです。
ジャンボジェットと芸能人とハワイ
1964年に海外旅行が自由化されますが、まだまだ庶民には手が出ないものでした。
そんな庶民の憧れの的だったのが「ジャンボジェット」と「芸能人」と「ハワイ」です。
「ジャンボジェット」とは、ボーイング747の愛称のことで、1970年代の海外旅行ブームのシンボルとなっていました。
ジャンボジェットに乗って、芸能人がハワイに行く。そんな憧れのイメージから、新婚旅行の定番の行き先としてハワイが加わります。
価値観の多様化
平成以降は、旅行先が多様化すると共に、結婚観も多様化していきます。豪華な旅行を選ぶ方もいれば、結婚式すらしないという方もいます。
また、イギリスのブライダルツアーの頃から、新婚旅行は休暇という意味合いが強かったのが、観光目的に変わってきたのもこの頃のようです。
なぜ新婚旅行は、熱海や宮崎に行くのが定番だったのか
かつて国内の新婚旅行は、熱海か宮崎が定番でした。なぜ熱海や宮崎が人気だったのか、そしてなぜ廃れたのかについて、解説いたします。
新婚旅行で熱海が人気だった理由
1950年~1960年代(昭和30年代)にかけて、新婚旅行と言えば熱海が定番でした。
しかし、なぜ熱海が人気だったのかは、今となってはよく分からないようです。おそらく、東京から丁度よい距離にあったため、というのが一番考えられる理由です。
湘南列車から湘南電車へ
1872年に開業した東海道本線は、1925年には熱海まで開通していました。1928年には、蒸気機関車に代わり、電気機関車が走るようになります。「電気機関車」と「電車」の違いは、先頭車両だけに動力があるか、各車両に動力があるかです。この当時は「湘南列車」と呼ばれていました。
1950年に、「電気機関車」から「電車」に代わり、名称も「湘南電車」となりました。
湘南電車は、日本初の長距離電車であり、オレンジ色の特徴的なデザインもあって、大人気となりました。
この1950年代の湘南電車の人気が、新婚旅行の熱海人気にもつながったようです。
新幹線がまだ通ってなかった
しかし、1964年の東京オリンピックに合わせ、東海道新幹線が開業します。
当然、鉄道の人気は新幹線に奪われることになります。合わせて、より遠くに行くことができるようになったことで、徐々に熱海の人気は下がっていきました。
また、後述の宮崎人気に押されたというのもあります。
新婚旅行で宮崎が人気だった理由
今では考えられないかもしれませんが、1960年代の宮崎は、南国リゾートであり、新婚旅行のメッカでした。
1974年に、新婚旅行で宮崎を訪れたカップルは37万組で、全国のカップルの35%に相当すると言われています。
海外旅行はできなかった
海外旅行が自由にできるようになったのは、1964年以降です。それまでは、外貨の持ち出しを制限するために、一般人が渡航することは禁止されていました。
当然、旅行先は国内に限られることになります。
また自由化以降も、海外旅行はとてつもない高額になったため、一部の富裕層に限られていました。
恋愛結婚の聖地
先に書いたように、1960年の島津貴子・久永夫妻の結婚は、新しい時代の女性・恋愛観の象徴として、結婚ブームのきっかけとなりました。
その夫妻が、新婚旅行で宮崎を訪れたため、宮崎が大注目されます。
ここへきて、宮崎へ新婚旅行するということは、私達も「恋愛結婚」したんだ、という特別な意味を持つことになります。宮崎は「恋愛結婚」の象徴となったのです。
キャンペーン「アロハで飛ぼう!」
その若者たちの気持ちを見逃さなかったのが、観光業界です。
日本人の「ハワイに行きたくても行けない」気持ちと、「恋愛聖地としての宮崎」を利用し、南国リゾートとしての宮崎キャンペーンを仕掛けます。
キャッチフレーズは「アロハで飛ぼう!」です。実際にアロハシャツを着て、飛行機に乗り、宮崎や鹿児島を回るというツアーです。今となっては嘘のような話ですが、当時はこれがヒットしたのです。
この他にも「サマーファイヤー」や「水着バス」など、様々な若者向け「南国イベント」が企画されました。
映画『100万人の娘たち』
『100万人の娘たち』は、1963年に公開された恋愛ドラマです。
宮崎交通の全面的なバックアップの元に製作され、主人公は宮崎交通のバスガイドです。
観光名所がこれでもかと登場し、あからさまな宣伝映画なのですが、新婚旅行ブームを盛り上げる材料となりました。
NHK連続テレビ小説『たまゆら』
1964年~1965年にかけて、NHK連続テレビ小説として『たまゆら』が放送されます。
川端康成の書き下ろしで、宮崎が舞台です。ロケ地の日南海岸や橘橋には、連日多くの人が詰めかけました。
川端康成がなぜ宮崎を選んだのかというのは、取材で訪れた宮崎を気に入ったから、ということなのですが、宮崎が人気になる前の話なのか、後のことなのかは、はっきりしません。
おそらく後者ではないかと思われます。人気を仕掛けたというより、人気に乗っかったということですね。
歌謡曲『フェニックス・ハネムーン』
『フェニックス・ハネムーン』は、1967年に製作された歌謡曲です。永六輔作詞、いずみたく作曲、デューク・エイセスが歌っています。
「フェニックス」とは、「カナリーヤシ」というヤシ科の樹木のことです。日南海岸には、南国気分を盛り上げるために、フェニックスが多数植樹されていました。
ハワイアンテイストのあるゆったりとした曲で、宮崎の新婚旅行キャンペーン映像では、定番のBGMとして使われました。
宮崎ブームの終焉
1970年代に入ると、新婚旅行としての宮崎ブームは終息していきます。
その理由は、1972年に沖縄が返還されたことと、本当にハワイに行くようになったことが大きいようです。
つまり、日本人の新婚旅行先は、次のように広がっていったということになります。
- 1950年~:熱海
- 1960年~:宮崎
- 1970年~:沖縄
- 1980年~:ハワイ
- 1990年~:その他海外
ちなみに、2023年現在は、不況や円安、コロナ禍などの影響で、国内旅行への回帰が見られます。
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まとめ 新婚旅行になぜ行くのか
記事の内容をまとめます。
- 「ハネムーン」は、旅行ではなく、結婚直後の親密な期間を意味する言葉
- 19世紀のイギリスの上流階級では、結婚後に親族や友人を訪問する習慣があり、「ブライダルツアー」と呼ばれた
- 鉄道の普及とともに、ブライダルツアーが大衆にも広まり、現在のハネムーンとなった
- 日本には明治時代に「ハネムーン」文化が紹介された
- 遡って、坂本龍馬とお龍の旅行をハネムーンと呼んだだめ、日本初の新婚旅行は坂本龍馬と言われることがある
- 日本でも鉄道の普及と共に新婚旅行が広がるが、上流階級に限られた
- 1959年の皇太子明仁親王と正田美智子の結婚、1960年の清宮貴子内親王と島津久永の結婚が、「恋愛結婚」のイメージを広め、結婚ブームを引き起こす
- 新婚旅行に行くことは、恋愛結婚の証明となった
- 1950年代は、新婚旅行の行き先として熱海が人気だった
- 熱海が人気だった理由は、湘南電車の影響が大きい
- 1960年代は、新婚旅行の行き先として宮崎が人気だった
- 宮崎が人気だった理由は、島津貴子・久永夫妻が新婚旅行で訪れたことと、それに合わせてメディアミックス戦略がとられたため
- 1970年代以降は、沖縄・北海道を経て、海外へと広がっていく